白虎隊のお墓にのぼる、マナーの悪さに墓守は嘆く、注意すれば逆ギレとは?

こんにちは、レモンです。

白虎隊墓石に上がって記念写真を撮る子供の親に注意すれば、母親に逆切れされてしまうそうです。

「はぁ?なんでダメなの?こっちは客で来てやってんだけど」と言われるそうです。

「お客様」のマナーに墓守は嘆いています。

まずは、白虎隊について調べてみました。

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白虎隊

白虎隊(びゃっこたい)は、

会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。

幕末の会津藩が組織した部隊には他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊などがある。名前の由来は、中国の伝説の神獣である「白虎」からである。

*ウキペディアより引用

幕末の会津藩が作った少年部隊でした。

白虎隊は本来は予備兵力であったそうです。

会津藩は若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めました。

しかし、圧倒的な勢いで迫る新政府軍に対しては劣勢してしまいます。

その上、重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗してしまうのです。

本来、城下防衛の任務だった白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍したのです。

白虎隊も各所で苦戦を強いられることになります。

8月23日に負傷者を抱えながら残りの合計7人が郊外の飯盛山へと落ち延びました。

この時、深刻な負傷によりこれ以上は戦えないと悟り結果7名が自刃を決行します。

6名が死亡します。

唯一喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留めました。

白虎隊は若松城周辺の火災を目にし落城したと誤認して悲観したとされています。

しかし、生き残った飯沼氏が生前に伝え残した手記「白虎隊顛末略記」によると、

当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者、

敵陣に斬り込む者とのあいだで意見がわかれたそうです。

いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで、敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかったそうです。

隊員達は、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したということです。

2013年、NHK大河ドラマ「八重の桜」で放送されました。

白虎隊の構成

・士中一番隊 49名、二番隊 42名

・寄合一番隊 106名、二番隊 67名

・足軽隊 79名

から成り、合計343名である。

*ウキペディアより引用

白虎隊士墓(飯盛山)

白虎隊士墓のある飯盛山は、戊辰戦争時に自刃した武家女性や討ち死にした婦女子約200名の霊を慰める石碑の「会津藩殉難烈婦碑」があます。

飯盛山

*詳細は上記

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まとめ

白虎隊の墓は飯森山にあります。

「ここは昔からある古墳で、白虎隊さんが眠る前からもたくさんの人が眠っています。亡くなった方は『苦しいです』ということひとつ言い返せません。だから失礼なことがないように守っていくのが我々の義務だと思います。お墓は亡くなった方の寝室です。いつでも綺麗に静かな環境にしたほうが気持ちいいです」

*墓守 飯盛さんのコメントより引用

マナーを守らない方が多いようです。

飯森さんの「お墓はなくななった方の寝床です。」という言葉があります。

先祖を大切にすること、歴史の背景にもう少し目を向けることが出来れば、マナーを守る方も増えるのではないでしょうか?

最後までお読みいただきありがとうございました♪

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